「Sanctuary of Blossoms」 本映像作品は、人に寄り添うように咲き誇る花々と、多様な姿で朽ち・枯れゆく花々、この二つの空間を中心に展開します。聖域のような安心できる空間と、死に向かう時間が流れる空間は、虚構と現実のコントラストのみを示しているわけではありません。例えば幼児が人格を形成する上では、両親や重要他者との関係の中で結ばれる安心できる領域が大切になります。幼児は安心できる空間を起点に、少しづつ境界を広げ、多様な経験の中で世界との関係を結んでいきます。一方でデジタル環境の中に人々が飲み込まれている現代社会の中では、時に人々は過剰なコンフォートゾーンの中に漬け込まれてしまいます。心地よくないものを遠ざける行為は分断を生み、それを避けるためには境界の外側を知ることも重要になります。自分自身が大切にするものを知り、その上で未知のものや違和感のあるものと、どのように向き合って歩んでいくのか。本作品は、私たちの人生や世界の移ろいを反映し、咲く花の美しさとそれに続く衰退が対立するのではなく、補完し合い、それぞれが独自の美しさとその先にある希望につながることを示しています。 「Flashing before our eyes」 走馬灯を共に見るような映像体験。無意識の中に沈んでいく中で、意識を取り戻し再び目覚めるまでのイメージで構成されます。今回イメージの象徴となっているのが金魚です。アーティスト蜷川実花の代表的モチーフの一つである金魚については、近年の作品にはその捉え方に異なる側面が生じています。金魚は、これまで水槽の中に囚われた一部の犠牲者の象徴としての側面のみが強調されていました。しかしながら、このコロナ禍を経て、人々は互いを制約する、社会というある種の水槽の中で生きていることを実感しました。現代社会という、強烈なつながりの中に生まれる巨大なシステムの中で生きる私たちはすくなからず、金魚に通じる側面を持つのでしょう。映像の後半に登場する金魚は大きな水槽の中でのびのびと泳いでいます。ある制約の中で生きる存在をただ哀しむのではなく、それであっても個体としてどう生きるのか。都市の中心に展示される本映像作品は、そうした巨大な仕組みの中で生きる人々に寄り添うまなざしとともにあります。 「胡蝶」 本映像作品は、能楽師 鵜澤久とアートチームEternity in a Momentのコラボレーションにより制作されました。「胡蝶のめぐる季節」のアートフィールドにて、能の演目「胡蝶」の後半部分を上演しました。能舞台では、多くの場合シンプルに松の絵を設置し、具象的なイメージは避けます。本作品において投影される映像アートは人々の心象風景と未来をつなぐ、多義的な解釈を意図したものであり、この点において、能の舞台装置としての役割を持っています。 鵜澤久が演じるのは蝶の精霊です。花々に心を寄せる蝶も、寒中に咲く梅花にだけは縁がなく、その悲しみからの救済を願って僧の前に現れます。後半部では梅花の蔭にまどろむ僧たちの夢の中に、蝶の精霊が現れるところからはじまります。3層に重ねたスクリーンを演者が行き来する様子は、夢幻の間に蝶が立ち現れるイメージを示しています。またプロジェクターの映像はスクリーンだけでなく、演者の能面や衣装にも投影され、演者の動きだけでなく、光の当たり方で蝶が感じる情感が表現されていきます。蝶が四季の花々を巡る場面では、例えば舞台と演者が菜の花の色に染まるなど、シーンがダイナミックに変わっていきます。「花も尽きて」という謡から季節は冬となり、喜びの舞にも終わりが訪れます。また春が巡り、スクリーンの重なる夢幻の霞の中に、蝶が飛び去っていきます。 幻想的な体験をもたらす本作品の映像は、実際はほとんど加工がされていない現実のものであり、花々は日常の中で撮影されています。蝶は夢と現実の間をつなぐ象徴である一方で、Butterfly effectという言葉の通り多様な未来の可能性の象徴でもあります。これは蝶が環境の影響を受けやすい生物であるという認識からも来ています。 胡蝶の夢から戻った人々が、現実と虚構の間を漂うだけでなく、その先にどのように歩むのか。人々に広がる多様な未来の可能性に寄り添い、その先のイメージを結ぶことも作品の重要な鑑賞体験です。
anonymous art project "Collective 2024" 上映 2024.3.18 - 3.25